【太平洋戦争終戦80年特別企画】15歳・少年志願兵への手紙【日本海軍飛行隊・予科練】
2025.08.14
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はじめに
太平洋戦争末期、日本軍は「志願兵」約20万人を戦地へ送ります。その中には若干13歳から18歳の少年兵も多く含まれます。
1943年に施行された「学徒出陣」の年齢は20歳でした。
これは弊社が所蔵する、海軍航空隊(予科練)へ配属された方へ送られた地元のご友人の方からの書簡です。
今でいうならば中・高校生に当てはまる少年志願兵、そんな歳の少年たちの思いはどんなものだったのでしょうか。
太平洋戦争終戦80年企画「15歳・少年志願兵への手紙」、少しでもお読みいただいた方の心に届けば幸いです。
※なお、この企画に際しご遺族の方へのご了承はいただいております。ただプライバシー保護の観点からお名前には画像処理を施させていただきます。
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①15歳少年、海軍航空隊志願と合格通知
こちらは昭和19年に海軍航空隊へ志願し合格された、当時15歳の方Aさんの合格通知です。
日本軍の徴兵検査には大まかにわけて甲乙丙の三種の合格基準がありました。
甲は合格後に即入営、つまり現役兵として出征可能な者につきます。
その基準は「身長1.55メートル以上にして身体強健なる者(その中で、より兵役に適するとみられる者)」と定められておりました。
身長1.55㎝、現代の男性平均身長から鑑みますと幾分か低いかと思われますが定められた当初の明治時代ではこの基準をクリアできる者は少なかったそうです。
Aさんは乙合格と表記されています。170㎝以上と当時としては大変大柄ですが体重が52kgとスリムな体格だったことがわかります。
Aさんは合格後、海軍航空隊として滋賀県大津市にあった滋賀海軍航空隊へ配属され、きたるべき日に備え訓練を開始します。遺された資料によりますとAさんは昭和19年8月に滋賀空へ配属されたと記載があります。
滋賀海軍航空隊、通称「滋賀空」は主に予科練を育成した日本海軍の教育機関です。
設立当初の予科練は「将来、航空特務士官たるべき素地を与ふるを主眼」とされ、年少者を操縦士候補生として採用し養成するための教育期間でした。しかし戦争末期には14歳から17歳までの少年志願兵を全国から選抜し、基礎訓練を教育したのち、特別攻撃隊いわゆる特攻隊として出撃させることとなります。
滋賀空の場合、基地の用地買収に当たり当時の地権者が抵抗したことが記録されています。地権者の方々の苦渋の決断が伺えます。
ただ創設当初の予科練人気はすさまじく、その合格倍率は第1期生の年、昭和5年(1930年)で約73倍ほどでした。
そのため予科練に合格することは当時の少年にとって大変な誉れであったことは想像するに難くありません。
②地元からの手紙
ここからはAさんに宛てた、地元の学友Bさんの手紙のご紹介となります。
消印には19.10.3とあります。
Aさんが基地からBさんへ手紙を書き、その返信なのでしょう。当時のBさんの、15歳らしい無邪気な絵と共に、近況と思いが綴られています。
田奈部隊とは「東京陸軍兵器補給廠田奈部隊填薬所」の通称で、爆弾や弾薬の製造・貯蔵施設です。現在は横浜市青葉区に所在します「こどもの国」敷地内にその遺構が点在しています。Bさんは学生として弾薬などの製造・保管・運搬業務をされていたことが伺えます。
「日本が勝つまで頑張るつもりだ」「全く時勢が切迫してきた」Bさんの手紙から当時の中高生が抱いていた純粋で切実な思いを読み取ることができます。
BさんもAさん同様に志願されたようですが「落ちた」「捲土重来」とあります。
手紙は最後に「共に国の為に頑張ろう。検討祈る。」で〆られていました。
消印は19.11.9、Aさんは兵長になられたそうです。日本軍での兵長は上等兵の上、伍長の下にあたります。
その報せを手紙で聞いたBさん並びに地元の学友の方々が我がことのようにお喜びになっている様子が伺えます。
挿絵は潜水艦でしょうか。
この手紙にはAさんの近況からか、Bさんの焦りにも似た心持ちが垣間見えます。
「田奈部隊にくすぶって居るのは…」「早く驕敵を討ちたい。しかも海軍へ」
驕敵(きょうてき)は「驕り思いあがった敵」との意味で当時大変流行した言葉です。
Aさん同様海軍へ入隊したい思いと、それが叶わないもどかしさがヒシヒシと伝わってまいります。
消印20.1.23
最後なのか、残されたBさんからの手紙はこれで以上となります。
昭和20年、新年のあいさつと共にBさんの近況が書かれております。
「我、海軍兵籍に入る」「官立水産講習所遠洋漁業科に合格し昭和二十年三月二十七日に入校す(予定)」
官立水産講習所遠洋漁業科は海軍予備員制度下で予備員として組み込まれた農商務省下の教育機関です。
海軍予備員は陸軍の予備役とは異なり、一度も現役として軍務に服することなく予備役として従事可能となります。
兵隊として一度も出撃したこともないのにも関われず、いざとなったら海軍兵として戦地に赴く……
この後に続く文言は帝国海軍軍人としての希望と励ましが力強く、純粋な気持ちで書かれています。
私はこの三通を読み衝撃を受けました。なんと純粋な思いなのだろうと…。
疑いのない、真っすぐな気持ちが文章に表れています。中高生、思春期の熱く純粋な思いが心に響きます。
私たちはこの手紙を、当時の少年たちのこの思いをどのように消化すればよいのでしょうか。
最後にAさんに送られた、Cさんからの手紙を紹介します。
ご遺族の方にお伺いしますとCさんはAさんの近所にお住まいで、料理が得意な女性らしい方とのことでした。
内容から家族ぐるみでお付き合いされていた様子が伺えます。
私の目は最後の一文にくぎ付けとなりました。
「山本・古賀・両元帥に続いて立派な御奉公をなさること様祈って居ます」
この手紙の消印は昭和19年5月です。
手紙にある山本・古賀とは山本五十六元帥と古賀峯一元帥のことでしょう。山本五十六は昭和18年4月、古賀峯一は昭和19年3月、共に戦死・殉職されました。いずれも消印にある19年5月前に亡くなっています。つまりこの手紙の「御奉公」は「殉職」を意味します。
私はすぐに「大日本婦人会」のことを思いました。Cさんが「大日本婦人会」に所属されていたかはわかりません。ただ婦人会のタスキは買取業務をしておりますと○○町と町内会ベースで拝見いたします。それだけ各地にあった大きな組織です、この当時の女性の間での影響力は多大なものだったことが推察されます。
ともかくCさんはAさんにとってやさしい近所のおばさんだったのでしょう。CさんもAさんのことを優しいまなざしで見守っていたことと思います。そんな優しい方が「殉職」を手紙に書くのです。憎いと思って書いていないことは文面からもわかります。時代の流れ、空気感としてそう書くのが至極当然だったのでしょう。
だからこそ私は戦争に恐怖を感じます。今だから言えることです、だからこそ言い続けないといけない、伝え続けないといけないと感じました。
終わりに
2025年現在、ウクライナに対するロシアの侵略行為、ガザ・パレスチナに対するイスラエルの侵略行為が続いております。
ロシア・イスラエルともに「自衛のための戦い」と大義を掲げています。
戦争はなくならない、戦争は終わらない、確かにそうかもしれません。
しかし戦争をなくしたい、という希望もなくしてはいけないと感じます。
戦争に行くほとんどの人が「普通」の人です。共に親がいる、子がいる、家族がいます。
そんな普通の人がいつの間には自国と敵国に分かれ、時に子供の「殉職」を祈願します。
これが戦時の「普通」となりました。
こんな「普通」がもう来ないよう、私たちは考え続け、伝え続けねばならないと思います。
※この記事を書くにあたり御許可くださいましたご遺族様並びに関係者様にあたらめて感謝の意を表し、文章を〆させていただきます。お読みくださりありがとうございました。
2025年8月
江戸市川代表・室園義孝
弊社「江戸市川」では戦前/戦中/戦時中の日本軍関係の写真や軍事資料買取・寄贈をご遺族様、お客様に寄り添った形で執り行っております。
ご遺族様にとって最もよい方法で当時の写真やアルバム、軍事資料を引き継がせていただければと存じます。
そのようなご遺族様の意向を受け、学術的に役立てていただける機関の方への協力も予定しております。
今現在では特に上海事変から南京、武漢、重慶における日中戦争の写真や資料、マレーシア・シンガポール・インドネシア・パプアニューギニア・フィリピンなど東南アジア戦線、南洋における戦争写真、戦争資料を探しております。
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電話0120-456-956・メール・LINEでのお問い合わせを承っておりますのでお気軽にお声掛け下さいませ。
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