今日の李朝工芸(朝鮮民芸・朝鮮美術)の評価は民芸運動の中心人物・柳宗悦最大の功績と言っても過言ではないでしょう。
千葉県に我孫子という地名の場所があります。ここは私の生まれ育った故郷でもあり大変馴染みのある場所なのですが、大正時代には北の鎌倉と呼ばれ白樺派の作家をはじめ知識人、文人に愛された地でもあります。そして柳宗悦もまた大正3年に我孫子に移り住んでいました。
そこで浅川伯教が訪ねてきて柳は李朝工芸(朝鮮民芸・朝鮮美術)の美しさを知ります。
柳は李朝工芸(朝鮮民芸・朝鮮美術)の中に職人達の無垢な献身の心と儒教の潔白さを見出し絶賛します。柳は思想家であり宗教家です。李朝工芸(朝鮮民芸・朝鮮美術)こそ自身の哲学を体現したものと捉え、後にソウルで朝鮮民族美術館を設立するようになります。
無名の職人によって作られた民芸には「用の美」が宿る、それまで見向きもされてこなかった李朝工芸(朝鮮民芸・朝鮮美術)に日の目が当たり民芸運動初期メンバーの青山二郎も晩翠軒の社長の依頼で李朝陶磁器を買い集めるなど一気に李朝ブームが起きました。
李朝ブームになると価格の高騰化と贋作が大量に出回るようになります。大正李朝と呼ばれる李朝風の焼き物が焼かれ、それらが李朝陶磁器として売られたものも少なくなかったようです。
柳の民芸に対する理想と民芸商品の価格高騰という現実はなかなか折り合いがつきません。それは李朝工芸(朝鮮民芸・朝鮮美術)も同様です。柳が嫌った高価な鑑賞用陶磁器と同じように安価なはずの大量生産品の雑器が高額で取引されるという現実に、無名の職人のはずがいつの間にか作家化する現実に民芸批判が多かったのも事実です。それに対し柳は明確な反論をしておりません。
柳を批判することは簡単です、事実、民芸運動のメンバーだった青山二郎は離反します。ただ、無価値と思われていた李朝工芸(朝鮮民芸・朝鮮美術)が柳宗悦の美の眼により世に認められる美術工芸品となったという一点だけは揺らぎようのない事実なのです。